かなり長いですが、先日のドナルドキーンさん講演の内容メモをアップします。
年代や漢字など間違いあるかもしれませんが、ご容赦くださいませ。
尚、内容については学会に確認を取っていません。
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社叢学会@学士会館 11月16日(水) 13:00~17:00
講演:危機の後の文化 ドナルド・キーン社叢学会名誉顧問
(13:10~13:55 約45分間の講演)
(13:10~13:55 約45分間の講演)
日本には3つの危機があった
・応仁・文明の乱
・天明の飢饉
・太平洋戦争
震災後、海外からの日本人の精神に対しての賞賛が多い。
また、アメリカの大学生などは演劇をしてお金を募って寄付をするなどの活動が広がっている。通常、被災地へお金を送るときには途中で横領されるなどの懸念をする場合があるが、日本へ送る場合にはそのような心配をする人がいない。(疑わない)
私(ドナルド・キーン氏)は日本文学研究者として、日本をよく知っている立場として、クライシスの時にどうして日本人はそのような行動ができるのか?と問われることが多い。
その際にいろいろな観点から検証すると、日本には、儒教、仏教の影響などが考えられるが、それぞれその宗教を主体とする国を見ると必ずしも日本と同じような行動をとっているわけではないことがわかる。
例えば、儒教を信じる国として同じように孔子を信じていた国でも、異なる行動があった。文化大革命の時代には、孔子は悪魔として扱われた。仏教は慈悲や平和の宗教だといわれているが、仏教を国教として信じる国においては、絶えず内乱がありこれもまた異なった行動をしている。では、日本独特の武士道の精神の影響かと考えると、裏切りや憎しみの歴史もあり、やはり武士道だけでは説明ができない。これらを考えると、神道も含めてすべてのものが合わさって日本人の精神力が作られているのではないかと考えるのである。
日本の文学において、災害についてほとんど描かれていない。例外は鴨長明の方丈記で、恐ろしい地震、火事、飢饉が描かれている。(自分は授業で教えることも含め、方丈記を60回位読んでいるとも補足説明)。それに対して、平安時代はあまり災害を描くことはなく、華の風雅を描く方を好んだ。火事や災害などは忌み嫌い無視した。古今集の中の歌に出てくる「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ」を、津波の波が松山を越えたと解釈をする人もいるが、古今集の研究第一人者の片桐洋一氏も違うと言っているし、自分個人としてはこの解釈は違うと思っている。(この歌の意味は、『私が恋しいあなたからこころ変わりをするなんて、あの松山を波が超える位ありえないことだ』という気持ちを綴った恋の歌。)
江戸時代に本多利明(1744-1821)という実用論者がいて、西域物語という書物を残している。この書物には、運送用の船を購入して貿易をすべき、など当時では受け入れ難い記述がされていたことから明治時代まで世に出ることはなかった。その西域物語の中で、本多利明が東北(奥州)を旅した記述があり、浅間山が噴火して天明3年に飢饉が発生した。食料がなく、200万人が餓死した、との記述がある。もし本当だとすると、今回の震災の被害者の比ではない数の被害から立ち直った経験があるということです。
応仁・文明の乱に於いては、京都は失われたと言ってもいいくらいの破壊を受けた。当時印刷技術がなかったので、写本という形式で書物が写されて保存されていたが、それも打ち壊され、そのような書物があった、という題名はわかるけれども内容については読むことができなくなってしまった。日本文化は一度死んだのである。しかし、この後、東山文化という新しい文化が始まり、今日の文化につながる様式が生まれたのである。東山文化は足利義政が文化の立役者で、将軍としては駄目だったが文化発展に寄与した。
太平洋戦争においては、日本中が破壊しつくされた。私(ドナルド・キーン氏)は、当時通訳官として1945年冬の日本に来た。本当は日本が好きでもっと早く日本に行きたかったのだけど、上官とけんかをした為に上海に配属されていて、戦後に上海から厚木まで飛行機で移動して日本に到着したのである。まず飛行機の上から見て、日本は木が多いことに驚いた。そして厚木から東京へ車で向かった。普通、街は中心に向かうほど建物が増え、にぎやかになっていくが、その時は、中心に向かうほど何も無く、蔵は残っていて煙突は残っていたけれども他には何もなかった。(焼け野原だった)。そういう東京を自分の目でみた。そのころ2000人ほどいた日本語を勉強していた同僚は、戦後50年は日本は立ち直れないだろう、日本語を勉強しても意味がない、と考え、歯医者やピアニストなど様々な職業に転じ、残った人は30人位しかいなかった。誰一人立派な街になると思っている人はいなかった。日本人自身も駄目だと思っていた。その後日本を離れ、1953年に日本に戻って来て京都に住み、ちょうどその頃に、オーストラリアやカナダ、アメリカ、英国など様々な国が来て(経済学者が中心だったと記憶している)国際会議を行っていた。その時、京都大学の経済学者の発言は『日本は立ち直れないだろう』と言っていた事を今でも覚えている。しかし、私はそう思っていなかった。(立ち直れると思っていたし、実際立ち直った。)
また、戦後の15年は食べ物もなく、大変な時代だったが、日本文学においては黄金時代であった。文壇では谷崎潤一郎、永井荷風、志賀直哉、中堅どころとして川端康成、新人の作家として太宰治、三島由紀夫、阿部公房など、あんなに優れた作家が集まった時代はなかったのではないか。江戸時代の芭蕉や小林一茶、近松門左衛門が出現した時と同じようなことであった。文学だけではなく新しい芝居もでき、夕鶴(木下順二)が日本舞踊やオペラ、演劇など様々な形で公演され、新しい演劇時代の始まりだった。絵画に於いては、東山魁夷、平山郁夫、加山又造らがいた。この時代は経済的にも困難な時代であったが、日本はそれを乗り越えた。外国人に日本の近代文学として必ず進める作品は谷崎潤一郎の「細雪」で、戦時中は検閲で発行できなくなり、自費出版された作品である。(そんな目にあいながらもこの作品は今でも読むことができる。)
このように、日本は大きな災害にあっても必ず立ち直りすばらしい文化を作り上げてきたわけです。東北は必ず立ち直ります。私は日本が東北がこの悩んでいることを乗り越えることを信じていていますし、確信しています。
※キーンさんは、丁寧な日本語、です、ます体でお話になっていましたが言い切り型で記載している部分があることを補足します。
※キーンさんは、丁寧な日本語、です、ます体でお話になっていましたが言い切り型で記載している部分があることを補足します。
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